第6回解説付き古典邦楽演奏会より、
義太夫義経千本桜渡海屋の段「知盛幽霊」よりダイジェスト
モーツァルト(1756.1.27-1791.12.5 35歳没)
を普通と感想を述べたので
誤解が無いよう補足なのですが、
現代の時代、文化風土の視点から1700年代当時を
振り返って比較している事は言うまでもなく
理解頂けると思います。
1700年代(江戸中期~後期)の日本の音楽と言えば
歌舞伎や浄瑠璃が流行っていた邦楽との比較で
モーツァルトの音楽が音楽的にどうなのか?
という事はもはや述べるまでもなくその作品の
質は歴然としたものだと思います。
高度に発展した楽器の改良、発明は
西洋文化が個人の精神性の存在重要性を既に
理解していたと同時に、
日本の集団性や協調性の中から生まれる
文化構築とは逆の(個人)からの文化構築が
そもそも基盤として露になったに過ぎない
現象だと思います。
「個人の人格の精神の流れを記録する行為」が
作曲する行為だとすれば、しかも
楽器のみでその繊細な感情の一滴まで
表現する技術と楽器の発明こそが
古典邦楽との決定的な大きな違いの様に思います。
そういった意味でもモーツァルトは天才ですが、
300年も前の作品が違和感なく現代でも聴けると言うのは
日本が西洋文化に如何に感化され続けているか
という事が良くわかります。
むしろ、古典邦楽の方が日本人でありながら
異文化の様に聴こえてくるのは考える点です。
古典邦楽は音楽と言うより、語り部の「アクセントと間」
を繋ぐ為の役割として三味線の音でその「間」を
繋ぐ役割に留まっている様に思います。
ここで敢えて詳しくは述べませんが
西洋音楽と邦楽の精神性や構造の決定的な違いが
音楽そのものに表れていると思います。
しかし、古典邦楽の優れている点や美しさは
西洋音楽にない全く違う視点から見なければ
見出す事ができないと思います。
それについて敢えて述べません。
僕が問題にしているのはモーツァルトやその他の
作曲家の作品についてでは無く、
他人の作品を我が物の作品の様に振舞っている
古典音楽の演奏家(社会主義者)につて
言及しているだけなのです。